「自分の運命が気に入らないなら変えればいい」

           今、すべての男に捧げたい。       アイーダより
 

これが予兆というものか。

幕が開(あ)く前から、もう満足だった。 緞帳のせいである。なにやら特別の「気配」が漂っているのである。

「これ、カッコいいね」 隣席の連れに思わず指さした。

「うーん。確かこれは古代エジプトの象徴的な紋章だったと思うけどなぁ。造型がしっかりしてるよね。歌舞伎の定式幕(じょうしきまく)も江戸の粋とか渋さとか出してるけど、こりゃまた強さが格別だ。色彩が絶妙」

連れは画家で、利いた風なことをぬかしているが、本日初めて福岡シティ劇場に足を踏み入れたという時代遅れ。ついでに私の夫でもある。

しかし初見者は初見者なりに面白い行動をとるもので、ロビーを抜けて階段脇の大きなブロンズ像に目を止め、「へぇーボテロの代表作だ。すごいね」と横から後から十分程も見渡して飽きもせず。私はといえば劇場オープンの日から何度も通っているのに、無造作に置いてある彫刻ひとつでこんなに興奮するなんて全く安上がりな男でもある。
「ミュージカル観るのはニューヨークで『オペラ座の怪人』観て以来だよ」「それ二十年くらい前でしょ」「エジプトの味再現ホワイトビールだって。一杯やろうか」観劇の前のゆえ知らぬ浮き浮きした気分を愉しむのもまたアペリチフの一部分なのである。

そして一気に別世界へ。

冒頭の博物館のシーンは現代人が感情移入しやすいように見事な演出であるし、アイーダは登場するやいなや、完璧な力強さで「只者ではありません」を全身表現するしで、とにかく息をするのも忘れるほどのスペクタクルだ。

愛してはならない人を愛してしまったゆえの不幸と理不尽。複雑に変容する男と女の心理模様。私がいちいち感心したのは、それら心の内面描写をくっきりと、的確に表現している舞台装置と照明である。

シンプルなのだ。 単純ゆえに綾なす世界が広いのだ。

配色のコントラストと構成の大胆が観る者を圧倒する。「芝居はやっぱり小道具じゃないね。発想の転換やね」「光と影を熟知してるよね。一つひとつが現代アートでさ。演劇というのはもともと時間と空間を組み換えて観る者に活力を与える芸術だろ。だから人間の心を癒すことも可能なんだけど。さすがディズニー、祝祭空間のつくり方が図抜けてるね」 いつのまにか熱中して惹きこまれ、まばたきひとつせず観入っている連れ。

「えーっ、アイーダってオペラじゃないの?本物の象なんかも出るアレかと思ったのに違うんだ…」 前日まで逡巡してたくせにすっかり四季の魔力の虜(とりこ)になっている。観終わってまず思ったのは、いつの世にも強い女もいれば弱い男もいると。 無邪気でお洒落に現(うつつ)をぬかす嬢ちゃまだった王女アムネリスの人間成長ぶりは特に見ものである。 まさに恋は、いや失恋は、人を育て、大器へと導く。 さらに女と女の友情の気高さという稀有なテーマにも挑戦して成功している。私のとって新鮮な驚きだった。 

「でも結局これは輪廻転生かいな」「古代エジプトの死生観は死んでもあの世で復活できる。ピラミッドをはじ始めとした壮大な死の文化を誇った。人類の生命は宇宙から来た、つまり、僕たちの肉体とは星々のカケラの仮の宿であり、入ってきたカケラは役目を終えて外へ、いや宇宙へと還っていくと」「とすると、この王女は大物ばい。恋人たちよ安らかに、よ。慈悲の心で二人を送り出す。なかなか出来んよ」

「モーツアルトが手紙に書いた有名な一節があるでしょ『死の姿は恐ろしいどころか、むしろ心を安らかにし、慰めてくれるものなのです』死は美しいよ、と。 異体験したおかげで色々と忘れかけていたことまで考えさせられたよ」 

そうだ。この劇は男にこそ観ていただきたい。百人いれば百通りの見方があるだろう。

アイーダがラダメスに語る台詞。「自分の運命が気に入らないなら変えればいい」。

今、すべての男たちに捧げたい。


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